「いのち」を耕すコトバを見つけに

読書系ブログです。「いのち」を耕し、豊かにしてくれるコトバを見つけに、本の森へと分け入っていきたいと思っています。

私たちの考える「真面目さ」について

こんにちは。

あるSNSで。職場で掃除を真面目にやっていたら、「真面目人間」と揶揄されて不快だったという投稿がありました。私もどちらかというと「真面目だね」と言われると不愉快に思ってしまいます。

それはおそらく、真面目という言葉が「融通が利かない堅物」という負のイメージを負わされているからだと思います。官僚や企業人の不祥事も、自分の職務が破たんしないようとするあまり、逆にコンプライアンスに反してしまうということになるのも、この「融通の利かなさ」の延長線上にあって、そうした出来事が「真面目」のイメージをさらに押し下げるということになってしまうのだと思うのです。

しかし私は、ここで真面目という言葉は「正のイメージ」を伴ったものとして復権を果たしてほしいということを考えてみようと思うのです。つまり、「人々よ、真面目であれ」ということが、メッセージ性を帯びるようであれ、と考えるのです。ついでに、「勤勉」という言葉についても考えられればいいなと思います。

非常に乱暴なまとめ方をしますと、社会学者のマックス・ウェーバーは、近代、ことに資本主義の「動機づけ」を果たしたのは、プロテスタントの倫理観・職業観といった「宗教性」に裏打ちされた「勤勉さ」、つまり「真面目さ」であったと述べています。歴史の推進力でさえあったというのです。

重要なのは、宗教性すなわち「聖なるもの」に裏打ちされている、という部分ではないか。しかし、そうした宗教性が有効であった時期は長続きしませんでした。資本主義そのものが「鉄の檻」として人々を外から拘束し駆動させるものとして確率してしまったからです。こうして「真面目」であることは、ある意味では外から強要されるものになったということができます。

ここに至って私は、真面目であることが外側の要因によるのではなく、自発的・内発的なものとして捉え直すことによって、正のイメージを回復することが可能ではないかと考えるのです。

ここでは一つ、拠り所としたい仮説があります。それは、人々は必ず「内なる良心」ないし「善性」を秘めているということです。それを信じたいということです。この「内なる良心」の声に耳を澄ますこと、忠実であることに立ち還るべきだろうということを言いたいのです。いわば「真面目ルネサンス」よ興れ、ということなのです。

 

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今回はここまでです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

茶箪笥

 

 

 

 

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