「いのち」を耕すコトバを見つけに

読書系ブログです。「いのち」を耕し、豊かにしてくれるコトバを見つけに、本の森へと分け入っていきたいと思っています。

うれしさとたのしさとについて

f:id:plus_alpha00:20180603025905j:plain

 

おはようございます。

Skypeを使って4人で話をしていた時のことです。1人から「私は『楽しい』というのがわからないし、『楽しみなさい、趣味を見つけなさい』と言われるのは苦痛です」と言われ、虚をつかれた思いがしました。これに続けて言うのには、「うれしい」と「たのしい」の違いがわからないと。

その場に居合わせたお三方に許可を得たのではないですが、この「うれしい」と「たのしい」の違いを考えるのは面白いなと思って、この文を書いています。ごめんなさい。

こうした場合、辞書に当たるべきなのでしょうが、今回は敢えてそれはしないで考えを進めていこうと思います。この似ている言葉は別々のものとして存在している以上、別々のもの・状態を指すものとして使い分けられているのではないか、というのがその場での話の流れでした。そこで出たのは、概ね次の二つです。

1)「うれしい」は結果、「たのしい」は過程である。

2)「うれしい」は直接的な反応、「たのしい」は精神的な作用であり、事後的にも感じられるもの。

ここでは、この二点についてもう少し考えを進めていきたいと思っています。なお、「たのしい」については「楽しい」と「愉しい」の違いもあるのだろうとは思いますが、ここでは「たのしい」として同等なものとして扱うことにします。

1)うれしい=結果、たのしい=過程説

「猫がじゃれてくるとうれしい」とか、「志望校に合格したけどうれしくない」などの例が挙がったことから、まずは「うれしい」とは何か求めていたことが得られた「結果」なのではないかという話になりました。

一方で「たのしい」は、掃除をしていてだんだんときれいになってくるのが「たのしい」とか、ほしいものを探し求めて歩いている時が「たのしい」。また、こうして話し合っていること自体が「たのしい」という話が出て、これらをまとめると、「たのしい」とはその「過程」そのものにあるものではないかという話となりました。

2)うれしい=原初的反応、たのしい=精神的作用説

またその話を踏まえて、うれしいとは結果が得られたときの原初的な「反応」ではないか、一方でたのしいとはもう少し複雑な感情、ことによると「分化」された感情、心の働きなのではないかという話がありました。

例えば。

ある「過程」において、自分が刷新され続け、あたかも別の自分が生まれつつあるかのような「体験」は、たのしいに属するのではないか。そこには、産みの苦しみを伴うこともあるのではないか。また、その時は苦しい、辛いと思っていたことであっても、事後的にたのしいと意味づけされる体験もあるのではないか、といった話もでてきました。

さらに。

ジェットコースターに乗って、ワクワクする、ドキドキするのは「たのしい」ことから、たのしいとは、日常から一歩踏み出したときに感じるものではないのかということも挙がりました。

1)と2)とをまとめて言うと、

・「うれしい」は結果であり状態をさすものであり、

・「たのしい」は現在進行形または、完了形として動的に感じられるもの、

ではなかろうかということとなりましたが、いかがでしたでしょうか。ご判断を仰ぎたいところです。

最後に。ここでは「うれしい」より「たのしい」の方が高次な心の働き・作用であると序列づけるつもりは全くないことを申し添えておきたいと思います。もし、そうお感じになられたとしたら、私の論の進め方や文章能力に欠陥があるものとお考えくださいますよう、お願い申し上げます。

 

==========

 

今回は以上です。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

茶箪笥

 

 

 

 

広告を非表示にする