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国語教育から「日本語教育」へ

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おはようございます。

Facebookを巡回していたところ、興味深い記事を引用してくださっていた方がいたので、それをまずご紹介したいと思います。

www.msn.com

 

筆者は加谷珪一さん。概ね、次のようなことを言っていると思われます。

 

1)即時的な反応を求められるTwitterは、「文章の読解力」が欠如している人たちが一定数いることを可視化した。

2)こういった問題は学力云々という議論になりがちなのだが、読解力の問題は単純に学力向上だけで解決できるとは限らない。

3)実務的には2つのアプローチがあると筆者(=加谷氏)は考えている。1つは可能な限り、口頭ではなく文書でのコミュニケーションを実施するよう心がけ、このやり方に社会全体として慣れていくというもの。もう1つは、表現や表記の方法を体系化し、可能な限り分かりやすくするというものである。

 

私も単一の原因に還元しきれるとは思いませんが、ここではやはり「国語力」の問題として考えていきたいと思います。つまりは、今日までの(とは言え、エビデンスがない「直感的」なものでしかないのですが)国語教育の問題として考え直すことが必要だろうと思うのです。敢えて項目を立てるとしたら、次のように仮設できるかと思います。

i )国語科の名目での「道徳教育」をやめる。

ii )読書感想文は書かせない。

iii )「国語」科から「日本語」科教育への転換を考える。

では、それぞれについて考えたいと思いますが、この3点は「絡み合っている」ものなので、一部重複した記述になるかもしれないことをお断りしておきます。

i )国語科の名目での「道徳科教育」をやめる。

次の感想文教育とも関わってくるのですが、文章の正確な把握より、どう考える「べき」なのかという「道徳科」的色彩を帯びた教育が施されているように思われます。国語科では、言語能力の向上、つまりは読み・書き・聴き・話す力の向上を目的とした教育を施した方が良かろうと思います。

ii )読書感想文は書かせない。

その道徳科的な教育性を象徴しているのが、「読書感想文」という課題であると考えます。評価されやすい倫理的・道徳的な内容を書くことへの「圧力」を自発的に内面化してしまうといった弊害があると思われます。

この感想文という課題はまた、読書離れの遠因ともなっていると思うのです。つまりは苦手意識を持たせ、感想文を「書きやすい」本を選ぶといったことが実際にあり、ついには読書嫌い・読書離れの原因となってしまうと考えられます。

iii )「国語」科から「日本語」科教育への転換を考える。

では何が必要なのか。それは、道徳科的色彩を帯びた「国語科」から、テクニカルな日本語運用能力の獲得をめざす「日本語科」として再編成されるべきだろうと考えます。あまたある言語の1つとして、「母国語」としてではなく、「母語」としての運用能力の獲得を目指すことが必要だろうと思われます(母国語と母語の違いについては割愛させていただきます)。

となると、学校教育における日本語教育というものは、勢い「再教育」という色彩を帯びてきます。なぜなら学校教育以前に、一定の日本語運用能力を児童たちは既に有しているからです。

学校教育がこれからも必要であるかといった議論もありますが、ここでは当面学校教育が施行されるものとして考えますが、まず何よりも優先されるべきなのは、ゴール設定なのではないでしょうか。

つまりは、最終的にビジネス文書や卒業論文を書くためのリテラシーをつけるといったゴールを設定し、そこから逆算してカリキュラムを再編成するといったことが必要とされるのではないでしょうか。

 

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今回は、やや「矩をこえた」文章となってしまいました。お許しをいただきたいと思います。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

茶箪笥

 

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