「いのち」を耕すコトバを見つけに

読書系ブログです。「いのち」を耕し、豊かにしてくれるコトバを見つけに、本の森へと分け入っていきたいと思っています。

小学館「小説丸」サイトから、「私の本」 若松英輔さん・03

こんばんは。

小学館さんの「小説丸」に掲載された、若松英輔さんの「私の本」のご紹介は、これが全3回の最終回となります。そのサイトはこちらとなります。

 

www.shosetsu-maru.com

 

ちなみに、1回目・2回目はこちらとなります。

→ 1回目

→ 2回目

最終回の3回目は、「読む」ことと「書く」ことについて語られていきます。

 

「読む」「書く」というのは根源的な営みなので、呼吸のように、吸って吐いて、吸って吐いてというのを繰り返すものです。

しかし現代の人々は、吐く=書くことをしなくなり、過呼吸のようになっているのではないでしょうか。

(略)真に書くという行為は、それにより初めて自分が何者かを知ること、つまりは自分の内心と出会うことです。

 

 

私も「読む」と「書く」というのは、呼吸のように「吸って」「吐く」のと対応しているものと考えます。深く吐く=書こうとすれば、深く吸う=読むことが必要です。

ここで引いた若松さんの言葉からは離れますが、私がブログで書いている文章は、だいたい一呼吸、あるいは一筆書きのように書いています。

 

「読む」はもちろん、「書く」行為は、人生の揺れに備えるためのものでもあります。

「書く」ことは揺れ動いている自分をまざまざと知ることであり、そして同時に揺れ動いている他者をまざまざと感じる営みでもあります。

揺れのなかで生き抜くためにも人は、もう少し、「読む」ことと「書く」ことに時間を費やしてよいように思います。

 

文中でSNSでは他人がどうあることを知ることはできても、自分がどうであり、何者であるかを知ることはできないとも述べていらっしゃいます。

今回挙げた部分については、人とは、何ごとかを表現したい、表現せざるを得ない生き物であることを述べているのではないでしょうか。しかし、「読む」に代表される「知る」ことに躍起になるあまり、「書く」に代表される「表現する」ことがおそろかになっている。

もちろん、ここで言う「読む」と「知る」とは、質的に異なります。「知る」とは量的に物事を知覚することであり、「読む」とは「知る」の背景にあるものまでを読み込もうとする営みなのではないでしょうか。

そして、一度自分を通ったものとして「表現する」。この表現の目的の1つとしては、他者と「つながる」ということがあるのではないかと思われます。

3回の連載を通して、人間は「量」の世界にのみ生きているのではなく、「言葉」という生の根源から汲み上げたものを通して、他者とつながっていこうとする存在であるということを私は読んだのだと思います。これはあくまでも「私」の読みでしかありませんので、もっと多彩な「読み」があってしかるべきだし、そうした「読み」とも出会っていきたいなと考えています。

 

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今回は以上です。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

茶箪笥

 

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