「いのち」を耕すコトバを見つけに

読書系ブログです。「いのち」を耕し、豊かにしてくれるコトバを見つけに、本の森へと分け入っていきたいと思っています。

若松英輔をどう読むか~「かなしみ」と「永遠」を手がかりに~

こんばんは。

このブログでは、何度となく批評家であり詩人でもある若松英輔さん(1968年~)について言及をしてきています。今後も、最近(7/7)読了したNHKのラジオテキスト『詩と出会う 詩と生きる』について書き起こしたいと考えているところです。

今回は、若干視点をズラして、「かなしみ」「永遠」の2つをキーワードとして、若松さんの論考について考えていこうとするものです。

その前に、私の乏しい読書体験の中で、若松作品の何を読んできたのかを振り返ることとします(読了順)。

1)池田晶子 不滅の哲学 16/12/05読了

2)生きる哲学 17/03/22読了

3)100分de名著テキスト・苦海浄土 17/04/02読了

4)言葉の羅針盤 17/12/26読了

5)100分de名著テキスト・生きがいについて 18/05/11読了

6)NHKラジオテキスト・詩と出会う 詩と生きる 18/07/07読了

2016年12月から2018年7月までの約20か月で6冊というのは、かなりの割り合いではないでしょうか。自分でもびっくりだわ・・・。そして、積読が2冊控えております。購入を検討しているものも、数冊あります。

さて、先に「2つのキーワード」と申し上げたばかりなのですが、私はいったいいつ、どの著作を読んだときにそれを実感ないし直感したのかを、実のところよく覚えていないのです。ただ、くり返し「かなしみ」と「永遠(彼岸性とか超越という言い方で現れることもあります)」とが現れていることに気がついたのは、比較的最近のことではないのかと思っています。

この「かなしみ」と「永遠」とがキーワードではないのかというのは、未だ「直感」レベルでしかないので、細かい検討は後日に譲らざるを得ません。ことによると、私の力を越えてしまうものかもしれません。その可能性が高いです。ですので、ここでは「概略」を述べるのに留めておくのがよろしかろうと思うのです。

「かなしみ」とは、対象の喪失ないし、対象からの切断であったと思われます。つまり、ここでは「個」であることを強いられることになる。その「かなしみ」を深めることや、「かなしみ」に寄り添おうとすることとは、徹して「個」であることが出発点となるのではないでしょうか。

「足下を掘れ、そこに泉あり」と言いますが、個であること、つまり自分であることを深めること、それを「かなしみ」に沿って行おうというのが、若松さんの「方法」なのではないだろうかと思うのです。

その行き着く先は、「個」と「いま」とを越えようとすることにあるのではないか。「個」と「いま」を否定するのではありません。それをも包含しつつ、その「限界」を越えて「普遍」に達しようとすること。それこそが、「かなしみ」を深めることの目的なのではないかと思うのです。

「かなしみ」という岩盤を突き抜けたところに、豊かな「普遍(永遠)」という水脈を見出す。そのことで、「個」を縛るものを浄化するということではないだろうかというのが、いまの時点での私の読み(の限界)であると申し上げ、本稿を閉じたいと思います。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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茶箪笥